思い出の滞米生活48年   永瀬 光春(大2期 英文)

 昭和28年南山大学卒業後、当時米国進駐軍の一員で名古屋に駐在していたマウント空軍大佐夫妻のスポンサーで米国に留学することになりました。
 当時は太平洋を渡る飛行機がなく横浜から米国商船プレジデント・クリーブランド号で2週間かかって桑港に向かいました。途中ハワイに立ち寄り30ドルしか持つことのできなかった小遣いのうち15ドルを使い、ホノルル市内・パンチボール墓地・ダイヤモンドヘッド・真珠湾などを見学し桑港に到着した時は、3ドルとトランク1個でした。幸いにマウント夫妻の出迎えを受け、新たに購入された1953年型のステュードベーカ車で一路テキサスへ。国道を60哩のスピードで走ったそう快感は今でも忘れることができません。日本では30哩が最高でした。途中ヨセミテ・デスバレー・グランドキャニオンなどの国立公園に寄り、10日後目的地のアラモで有名なサンアントニオ市に到着しました。ここは、メキシコ人が多く町で出合うと、コモエスタウステと声をかけられ、最初は何と言っているのかわからないので手を振ってノーと返事をすると、今度はヌノーウエノ(気分が悪い?)と言って心配してくれました。彼らは非常に親切で、外観は日本人と変わらないのでよく間違えられました。
 その後マウント大佐がフォートワース市の空軍基地に転勤されたので私も移動し、テキサスクリスチャン大学に入学しました。戦後7年目のテキサスはまだ人種差別が激しくトイレはホワイト(白人)とカラー(黒人)、市バスも白人は前席、黒人は後席と区別されていて、日本人はどちらかと最初は迷いましたが、結局白人並みに扱われました。
1975年ごろ、日本の航空自衛隊が私の勤務先のジェネラルダイナミック社製造のF-16戦闘機を次期戦闘機として選択し、三菱重工から技術視察団が訪れました。
その中の一人が後輩の鈴木康夫氏(大5期 英文)でした。
20何年振りかの再会で、一見したところでは気がつきませんでしたが偶然の一致とでも申しますか、異国で同窓生に会うとは夢にも思いませんでした。
 卒業・就職・結婚と人生の3大行事が将来の基盤を築き、当市に永住することになりました。これまで嬉しいこと、悲しいこと、寂しいことなど山ほどありましたが、考える暇もなく、光陰矢のごとし、あと2年で滞米半世紀を迎えることになります。仕事の関係で欧州・中近東へ出張し異国の風俗習慣に接することができ、見識を広めたことは幸運の賜物として、その後に大きく影響しました。現在は家内と二人で老後の生活を楽しんでおりますが、幸いに趣味がたくさんあるので週末のナイフショー・ガンショー・カメラショー・骨董ショーなどに出店し老後の慰めとしています。
 年に2回は里帰りをして、11月は母校のホームカミングデーに出席したり、同期会の温泉旅行などで昔話に花を咲かせています。今年の同窓会50周年事業には必ず出席したいと、今から楽しみにしています。皆さまのご健勝を異国の地よりお祈り申し上げます。